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ヴァイダ・ブルー(1969−1986)<69〜77 オークランド・アスレッチクス、78〜81,85〜86 サンフランシスコ・ジャイアンツ 82〜83 カンサスシティ・ロイヤルズ>
1949年7月28日、ルイジアナ生まれ。
1969年にメジャー・デビューして12試合に登板、1勝1敗1S。翌年もシーズンの大半をファームで過ごし、9月になってメジャーに昇格するが、ここからブルーの快進撃は始まる。昇格後の初登板(ロイヤルズ戦)でいきなり7回までノーヒットノーランを演じ、終わってみれば1安打完封。次のツインズ戦では4回にハーモン・キルブリューを歩かしただけのノーヒットノーランを達成。この時ブルーはまだ21歳と1ヶ月だった。実質上のメジャーデビューの最初の2試合で、わずか1安打しか許さなかった奇跡のピッチングに皆驚いたが、翌1971年にも彼は快進撃を続け、24勝8敗、防御率1.82、奪三振301という数字でア・リーグのサイ・ヤング賞とMVPのダブル受賞を受けたのである。
1972年になるとさらにブルーは時の人となる。彼は年棒交渉で名物オーナーとして知られたO・フィンリーとやりあい、妥協しないオーナーの姿勢に業を煮やして「引退」宣言をしたのである。契約が完全に解消しないため、他球団にも移ることなく、1972年の5月までは彼は失業状態となり、しかも彼の年棒交渉は失敗に終わった。その間アスレッチクスの選手たちはブルーを支援せず、一方では彼がいなくてもリーグ首位に立てることを立証してしまった。復帰後の彼には前年にはあった何かが欠けていて、6勝10敗、防御率も1点近く悪くなった。翌1973年になっても調子は戻らず、1972年の最初の2ヶ月を休んだことでこの天才投手から何か重要なものが奪われてしまったことが明らかになったが、完調でなくても20勝9敗の成績を残すところは非凡ではなかった(もっとも、奪三振数は並の速球投手程度、防御率もリーグ平均より少しいい程度にまで落ちてしまったが)。時々彼の天才が復活することがあり、例えば1974年のア・リーグのプレーオフ第3戦では、強豪オリオールズ相手に101球で料理し、そのうち変化球はわずか6球だけ、後は全部ストレートという現代の野球では考えられない投球をやってのけた。2安打完封で四球なし、試合時間2時間足らずというのも、何か時代離れしている。しかし、大抵の場合は強打アスレチックスの援護に助けられての勝利でもあり、アスレチックス王朝の没落とともに、勝ち数は減少していった。
1976年になると、オーナーのフィンリーは、ブルーを高額で売り飛ばそうと考え、一方でヤンキースのスタインブレーナーも同じ考え(優勝できるなら札束を惜しまない)だったので、当時のトレードマネーの相場を無視した移籍契約が成立したが、そこへ大リーグコミッショナーのキューンがストップをかけた。不正な売買行為と判断されたフィンリーは、今度はレッズにブルーを売ろうとするが、ますますはね上がるトレードマネーに、またもやキューンの差し止めを食らう。選手会が力をつけつつありFA制度がスタートしているこの時期に、このような高額な金額(当時で150万ドル〜175万ドルという金額は天文学的数字だった)での契約を認めるわけにはいかなかったのである。結局、ブルーのトレード騒ぎは、1978年のジャイアンツへの移籍で決着する。ジャイアンツからアスレッチクスへ6人もの選手が出され、39万ドルものトレードマネーが支払われ、その時点でのブルーの実力からすれば過大評価とも言えるトレードだった。
それでも移籍直後の1978年には18勝10敗で防御率も2点台と好投する。その後弱いジャイアンツにあって、確実に2ケタ勝利が見込める投手だったが、1982年にロイヤルズへトレードされ、このあたりから麻薬疑惑が浮上し始める。そして、1983年8月、コカインの売買で逮捕され、ロイヤルズも解雇されてしまう。1年間の出場停止処分を受け、1985年には再びジャイアンツでカムバック。翌1986年も10勝して、まだ力を残していたが、麻薬疑惑は拭いきれず退団となる。最後にアスレチックスから声がかかったが、結局開幕までにベンチに残ることはできなかった。
オールスター出場4回、1971年にはア・リーグで、1978年にはナ・リーグで先発投手となり、両リーグで先発した最初の投手にもなった。生涯成績209勝161敗、防御率3.26、奪三振2175。