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ジョン・マグロー(1873−1934)<91 ボルティモア(アメリカンアソシエーションズ)、92〜99 ボルティモア(ナ・リーグ)、00 セントルイス(ナ・リーグ)、01〜02 ボルティモア(ア・リーグ)、02〜03 ニューヨーク・ジャイアンツ(ナ・リーグ) 監督として02〜32 ニューヨーク・ジャイアンツ(ナ・リーグ) ボルティモア時代も監督の経験あり>
(第一部 マグロー、ニューヨークに行く)
2003年、日本プロ野球界のスター選手であった松井秀喜が、ニューヨークの名門球団であるヤンキースでプレイすることになりました。
さて、MLB史上最大の人気を誇った選手といえば、恐らくベーブ・ルースでしょう。そのルースも、ボストン(Rソックス)からニューヨーク(ヤンキース)にやってきた選手でした。
そして、投手兼任から打者専門になって、ホームランを量産しスーパースターになっていきました。
時代を超えて、松井も、はるかかなたの日本からニューヨークへやって来ました。
野茂の成功もイチローの成功も偉大な業績ですが、恐らく松井が彼らほど成功したとしたら、その人気は想像もつかない熱狂的なものになるでしょう。
それほどニューヨークという街はMLBにとって特別な都市に違いありません。
(上の写真はマグロー。ジャイアンツの監督として無敵を誇った頃の写真)
☆☆☆☆
ジョン・マグローは1890年代のMLBの名選手でした。
ヒット・エンド・ランを野球の重要な戦術にまで高めたのは、彼の功績です。
そのマグローが、すでに監督としてのキャリアを積みつつあった1902年の夏、やはり、ボルティモアからニューヨークに移って、その人気を不動のものにしました。
元々、ボルティモア・オリオールズというチームの主力選手・監督であった彼が
ニューヨーク・ジャイアンツの監督になるまでのいきさつは、まさにメジャーリーグ草創期最大のエピソードといってもいいでしょう。
今回は、ニューヨークで成功を収めた最初の野球人であり、かつ偉大なる男”リトル・ナポレオン”ことマグローの若き日の物語です。
☆☆☆☆
MLBファンの多くの方がご存知の通り、バン・ジョンソンという人物が、1900年にアメリカン・リーグを創設してから、メジャーリーグの歴史は大きく変化していきました。
アメリカン・リーグは、19世紀末に何度も創設された野球リーグと違って、リーグ発展のための明確なビジョンをいくつか持っていました。
そのなかの一つがこれでした
”ニューヨークへ人気球団を作る”
しかし、それを実行する前に打っておく手がいくつもありました。
ジョンソンは、まず、すでに人気の高かったジョン・マグローに目をつけ、翌1901年のシーズンに彼を監督として引き抜きました。
当時、マグローはナ・リーグの首脳とうまくいっていなかったので、ジョンソンのこの誘いに乗りました。
☆☆☆
マグローがナ・リーグとうまくいっていなかった理由は、1899年にさかのぼります。
その年に、なんとマグローの所属するボルティモア球団の有力選手が、ごっそりブルックリン球団に移籍させられるという「珍事」が起こりました。
一見馬鹿げたエピソードのようですが、この「珍事」を理解するには、当時のアメリカの歴史をひもとく必要があります。
当時のアメリカ経済は、財閥支配が急速に進行していく段階に入っていました。
財閥の当主たちは、資本主義の常として市場拡大を求め、1890年代も後半になると、海外進出の機会を窺うことになるのですが、その意向に応じる形で、第25代大統領マッキンレーは、スペインとの戦争をもくろみます。
キューバの内乱に乗じたこの戦争は、米西戦争として、1898年に勃発し、アメリカ合衆国の圧倒的勝利に終わりますが(キューバ、グアム、フィリピンを実質上獲得)、
野球ビジネスに関しては、戦争はマイナス要素となりました。
ボルティモア球団のホースト会長は、戦争によって収益率が落ちたのをみて、もっと人口の多い地区で観衆を集めなければならない、と考えました。
彼の構想は、ブルックリン球団の株を買い占めて、2つの球団のオーナーとなり、ブルックリンのほうに力を入れて儲けを上げながら、ボルティモアをファーム球団にしようというものでした。
今ではこういう経営は考えられませんが、当時はこういう”シンジケート形式”が可能だったのです。
マグローは、ホーストのこの構想には特に反対しませんでした。
ただ、彼自身は、頑としてブルックリンへの移籍を拒みました。
(当時、マグローは、ボルティモアで「カフェ・ダイヤモンド」というレストラン兼酒場を経営していたので、その面でも、移籍を拒否せざるを得ませんでした)
マグローは、そのままボルティモアに残り、25歳の若さで監督に就任します。
そして、選手が抜けてボロボロになったボルティモア球団を率いて、予想以上の健闘を見せます。
ペナントレースは、スター揃いとなったブルックリンが優勝しますが、ボルティモア・オリオールズも予想以上の健闘を見せ、人気では完全にブルックリン球団を圧倒しました。
そして、選手兼監督のマグローは、名実ともに球界を代表するスーパースターとなったのです。
ところが、当時のナ・リーグは末期症状ともいえる状態でした。
クリーブランド球団とセントルイス球団も”シンジケート形式”により運用されましたが、こちらはマグローのような人物がいなかったため、クリーブランド球団は20勝134敗という壊滅状態に陥り、球団自体が解体されてしまいます。
ルイビル球団などは、球場が全焼したため手のうちようもなく、ピッツバーグ球団に吸収されます。
そんななか、ホーストの2球団経営も問題視され、ホーストはやむを得ずボルティモア球団を解散させます。
他にもワシントン球団が消滅し、結局その後半世紀継続する8球団に収束されるわけですが、割を食ったのは、あれだけ頑張ってナ・リーグ人気を盛り上げたのに、所属球団を解散させられたマグローです。
結局、マグローはセントルイス・カージナルスにトレードされますが、この一連の成り行きによって、ナ・リーグの運営に不満をもったのも当然のことでした。
そこへ、バン・ジョンソンが声をかけたので、マグローにとっても渡りに船だったわけです。
ジョンソンは、マグロー獲得を、ニューヨーク進出のためというよりも、ア・リーグがメジャーリーグを名乗るための材料としました。
1900年に発足したア・リーグは、ナ・リーグを刺激しないようにマイナーリーグを自称していたのですが、翌1901年になると、もうメジャーリーグと名乗ることになりました。
それは、ナ・リーグの人気選手であったナポレオン・ラジョイ、サイ・ヤングなどを一気に引き抜いたため可能となったことですが、さらにあのマグローが監督をしているということも大きな原動力となったわけです。
ジョンソンは、マグローの希望通り、ボルティモアにフランチャイズを置いて、その監督に就任させました。
少なくとも、この時期までは、この個性強い二人は、共通の敵ナ・リーグのために仲良くしていたわけです。
しかし、ワンマンタイプの二人のこと、蜜月時代は長く続きませんでした。
ジョンソンは、前述の通り、ニューヨーク進出をもくろんでいましたが、次第にマグローとの仲が険悪になっていくうちに、マグロー抜きでニューヨークのフランチャイズを獲得しようとしました。
一方で、マグローは、やたら審判の肩を持ち監督の権限を制限しようとするジョンソンに対して失望感を抱くようになっていました。
そこへ、ジョンソンのニューヨーク進出の野望を知り、しかも、それが完全に自分の存在を無視して計画されていることに激怒します。
マグローは、ジョンソンより先にニューヨークに進出してやろうと決意しました。
そんなマグローの心理を見抜いたかのように、当のニューヨークの球団から監督就任要請の話が飛び込んできました。
1902年の夏のことです。
声をかけたのはニューヨーク・ジャイアンツ。
マグローは、ジャイアンツのオーナーのフリードマンの相棒であるジョン・T・ブラッシュの豪邸へ赴きました。
交渉は秘密裡に行われ、マグローは、あたかもスパイ映画の主役のように、時刻を指定された列車に乗り、駅で降りたら、今度は指定された方角に向けてひたすら歩き、そして指定された馬車に乗ってブラッシュ邸までたどり着いたといわれています。
☆☆☆
ニューヨーク・ジャイアンツは古くからあったチームですが、1895年にアンドリュー・フリードマンがオーナーになるまでは、地味なチームでした。
フリードマンはニューヨークの政財界に顔の利く大物で、特にオーガスト・ベルモント(2代目)との仲は親密でした。
ベルモントは、あの有名なロスチャイルド財閥のアメリカ代表として著名な人物ですが、さらに、母方の祖父は日本の浦賀に黒船でやって来たあのペリー提督でもあったので、ボストンのペリー財閥との関係もありました。また、従弟の娘はモルガン財閥の一族と結婚していて、弟の妻はヴァンダービルド財閥の元女帝で、その娘は英国貴族チャーチル家に嫁いでいるという具合で、まさにその金づるは無限とも言えたのです。
フリードマンは、この世界一の大富豪とも言える友人の資金をもとに、ニューヨークの地下鉄を整備し始めます。
地下鉄は、エベッツ・フィールド(ブルックリン球団の球場)などを結んで開通していき、このことが、後に観客動員に大きな力を発揮するようになるのですが、それはさておき、フリードマンは、球団経営にも積極的に関与します。
長年の冴えない成績を払拭するために、選手獲得に惜しみなく金を注いだのですが、これは地下鉄建設ほどにはうまくいきませんでした。
せいぜい、バクネル大にいるクリスティ・マシューソンという選手がア・リーグのアスレチックスに入団しかけたのを横取りして、ジャイアンツ入りさせたことが、唯一の成功といえるでしょう。
しかし、そのマシューソンの素質を監督ともども見誤ってしまい、彼らは、マシューソンをファーストにコンバートして使おうとしていたのです。
1902年のシーズンが始まって、フリードマンはジョンソンのニューヨーク進出の野望を察知しました。
ニューヨークの陰のボスであるベルモントの友人という立場からして、自分がニューヨークで一番の球団のオーナーでなければならない、とフリードマンが考えたのも当然のことです。
そこへ、マグローとジョンソンの不仲が伝えられ、さらにマグローが今回はボルティモアを離れてもよい条件になっていることも確認できたので、フリードマンは、マグローのジャイアンツへの招聘を決断します。
1902年の夏のある日、フリードマンは、ジャイアンツの共同株主であったブラッシュを交渉人として、先述のとおり、マグローとの交渉をブラッシュ邸で行いました。
このブラッシュという人は、それほどの知名度のない人ですが、マグローのニューヨーク入りを成功させ、その後もマグロー監督を完璧に支えた名オーナーとしてもっと評価されてもよい人物です(いまだに殿堂入りしていないのが不思議なくらいです)
少しブラッシュのことを書いてみます。
ブラッシュの人生こそ、黎明期の大リーグにふさわしい激動の人生でした。
1845年にニューヨーク州に生まれた彼の人生は、4歳にして孤児となるという波乱のスタートで始まります。
その後、全米各地で衣服のセールスマンをして生計を立てていましたが、南北戦争の時にベースボールの魅力を知り、戦争終了後は野球事業に乗り出します。
しかし、ちょうどその頃に、リューマチを患い、歩くことのできない体になってしまったのでした。
彼は不屈の魂でその不幸を乗り越え、車椅子に乗りながら、球団経営を続けます。
そして、19世紀末には、ナ・リーグを代表する実力オーナーとして、確固たる地位を築いたのでした。
1890年代に一時的にナ・リーグの各球団が経営危機を迎えたときは、シンシナティ・レッズのオーナーとして、シカゴ、ボストンのオーナーと協力しながら、その危機を乗り越えました。
このとき、ブラッシュはジャイアンツの経営にも関与し、大口株主に就任しています。
また、”下品な言葉や酒を球場から追放しよう”というキャンペーンを行い、メジャーリーグのイメージアップを図ったのも、主にブラッシュの提案によるものでした。
そして、いままた、ブラッシュは、ジャイアンツの株主の一人として、オーナーのフリードマンの意図を汲んで、マグローを説得し、再びナ・リーグに寝返らさせたのです。
☆☆☆☆
1902年7月16日、後々のメジャーリーグの発展を考え合わすと、歴史的な日付といってよいこの日にマグローはマンハッタン入りしました。
マグロー、ニューヨーク進出のニュースは、当日の新聞の大見出しとなりました。
「フリードマン氏、事実上ア・リーグのボルティモア球団を買収、選手はそっくりニューヨークへ移籍」
「マグロー氏、ポロ・グラウンドへ。ジャイアンツ軍強化のため全権任される」
一方、マグローのいなくなったオリオールズは、同時に主力選手もごっそりジャイアンツに移籍し、一時的に壊滅状態となりました。その日のボルティモアの新聞の見出しはこうです。
「昨日のオリオールズの試合は成立せず。選手不在で試合放棄」
かくして、ニューヨークの野球界始まって以来の大事件のせいで市民は興奮のるつぼと化し、また、マスコミもその興奮をあおりにあおって、ジャイアンツとマグローの名前はニューヨーク中に響き渡ることになります。
さらに、マグローは、ジャイアンツ古参の選手の半分近くを一気にクビにして、ファンの度肝を抜きました。
また、マシューソンの素質を見抜けなかった元監督もクビになりました。ショートを守ることもあったマシューソンは、マグローの慧眼により再び投手に戻り、空いたショートには、マグロー自身が選手として入ることになりました。超大物選手兼監督とはいえ、まだマグローは20代だったのです。
(右の写真がマシューソン。Wシリーズ3完封の頃)
こうした一連の早業に、オーナーのフリードマンまでもが呆気に取られたわけですが、人々はマグローの措置に大喝采を送り、ついにニューヨークに本物のメジャーリーグが来た、という期待に胸を躍らせました。
ジャイアンツの監督として采配を振るった最初の試合(7月19日)には、本拠地ポロ・グラウンドに入りきれないほどの観客が押し寄せました。彼は、いきなりニューヨークっ子の気持ちをぐいとつかみ、その一挙手一挙動が好感を持って迎えられました。
ナ・リーグ、そしてフリードマン、ブラッシュのもくろみは大成功というわけです。。
一方、選手がもぬけのからとなったボルティモア球団の面倒を見なければならなくなったジョンソン会長は、強引にニューヨーク進出を実現させました。
というのも、この頃、ニューヨークの政界の派閥に変動があり、従来のフリードマン&ベルモントの派閥に勢いがなくなったのですが、代わってデバリーとファレルという新しいボスが、ロウ新市長の背後に控えるという状況になりました。
ジョンソンは、この新しい派閥に取り入って、ボルティモア球団をニューヨークに移転させることに成功したというわけです。
新球団はニューヨーク・ハイランダースと名づけられました。
一方で、19世紀末の最強球団ボルティモア・オリオールズの名前は、メジャーリーグから消滅しました。
それから半世紀以上も経った1954年に、セントルイス・ブラウンズがボルティモアに移転して、その球団名を復活させますが、それは後の話。
また、ハイランダースも、いつしかヤンキースという名前で呼ばれる球団となりましたが、非常に浮き沈みの激しい成績で、球団発足から15年間でBクラス10回、リーグ優勝なしという弱さでした。
フリードマンは、前述の通り、この頃政治方面で失脚し、同時にニューヨーク・ジャイアンツのオーナーからも退くことになりました。後任には、ブラッシュがレッズから移ることで決着しました。
ブラッシュとマグローという最強のコンビが誕生し、ジャイアンツ最初の黄金時代が訪れることになります。
翌1903年になると、マグローの人気は不動のものとなっていました。
ホーム球場のポロ・グラウンドは連日満員の入りで、ロードに出ても、どの球場でもスタンド一杯の客を集めました。
他にもいろいろな要素があったとはいえ、このマグローの人気抜きでこの時期の観客動員の飛躍的な拡大があったかどうかは極めて疑わしいところです。
マグローがニューヨーク入りした頃、両リーグの観客動員数の合計は約360万人だったわけですが、マグローのジャイアンツが快進撃を見せて、毎年リーグ優勝に絡んでいった結果、1908年には710万人を突破する観客数となりました。
わずか6年で倍増近い伸びを見せたわけで、それもジャイアンツ戦での動員が占める割合は大きいものがありました。
まさしく、マグローこそ、MLBの基礎を築いた男なのです。
後年のベーブ・ルースのホームラン人気も、観客動員の面だけでいうと、マグローの遺産を受け継いだだけに過ぎない、ともいえます。
ルースの人気をもってしても、さらに観客動員数を大幅に伸ばすことはできませんでした。
歴史上、このマグローの時代の熱狂に匹敵する観客動員数の伸びを見せたのは1945年から1946年にかけてのシーズンくらいのもので、他には見当たりません。
マグローは1903年限りで、選手を引退します。
そして、ニューヨーク・ジャイアンツの監督として、1904年以降の10年間、一度もBクラスに沈むこともなく、リーグ優勝5回、つまり2年に1回はリーグの覇者として君臨します。
2位に終わった1908年にしても、フレッド・マークルの歴史的なボーンヘッドがなければ優勝できていたと言われています。
マグローは
「マークルは優秀な選手である。またベースの踏み忘れというボーンヘッドはあったかもしれないが、審判はそれについてすぐコールしなかったのだから問題はない。それよりもその日の午後10時になって、カブスの執拗な抗議に負けた形で判定を曲げた審判と、それを認めたリーグ会長のパリアムを許さない」
と言いました。
(左の写真がマークル)。
人気抜群のマグローに敵対することになったパリアム会長は、マグローの優勝を妨げたという中傷を一身に受け、心身ともに疲れ果てた結果、シーズンオフに自分の頭をピストルで打って自殺するという悲劇になりました。
(ずっと後年になって、超人気選手のピート・ローズを賭博行為の件で永久追放した直後に、過労のせいもあって、意外な突然死を遂げたジアマッティ・コミッショナーの運命と似ているような気がしてなりません)
例えはよくなかったかもしれませんが、それほどマグローの人気というのはニューヨークっ子にとって絶大なものがあったといえるでしょう。
<その頃の野球風景>
(第1回ワールドシリーズ第3戦で、インチキをして球場にもぐりこもうとした観客は、こうして塀をよじのぼって球場内に入った)

(その頃のピッツバーグのベンチ風景。今と違ってシンプルである)

(第2部 マグロー伝説〜ポログラウンド最後の日まで)
・マグロー、日本へ野球遠征
1912年のワールドシリーズでボストンに負けたマグローは、さらにショックな出来事に見舞われます。
(右の写真は、マグローを負かしたレッドソックスの外野手トリオ。左から、ルイス、スピーカー、フーバー)
オーナーのブラッシュが亡くなったのでした。他球団のオーナーでさえ、その突然の死(列車内での急死)嘆いたほど人望のあったブラッシュ。マグローにとって、シリーズ敗退以上のダメージでした。
新しい球団社長には、ブラッシュの娘婿のヘンプステッドが就任しますが、あまり野球に関心を示さず、結局6年後にストーンハムに持ち株を売却します。ストーンハムは、マグローのファンで、しかもニューヨーク政界にも顔がきく大物だったので、その後しばらくストーンハム時代が続きますが、それは後の話。
さて、マグローは翌年もリーグ制覇を果たし、コニー・マックのアスレチックスと三度目の対戦をしますが、怪我人続出のジャイアンツは、またしてもシリーズを落としてしまいます。
シリーズ終了後、休む間もなく、マグローは「野球普及のための」世界遠征にでかけます。
この世界遠征に際しては、マグローのジャイアンツと、コミスキー会長率いるシカゴ・ホワイトソックスの選手が中心となって混合チームが結成されました。混合軍は、10月18日にシンシナティを出発し、旅費稼ぎのためのエキジビションゲームを行いながら、シカゴ、カンサス、ミズーリ、オクラホマ、カリフォルニアと巡業を続けました。この巡業には、遠征メンバーではないマシューソンやウォルター・ジョンソンも参加していました。
そして、11月19日、混合軍(遠征チーム)は、バンクーバーから日本までの23日間の海路の旅に出発します。
遠征チームの主力は打者ではトリス・スピーカー(Rソックス)、サム・クロフォード(タイガース)
投手ではエディー・シコット(ホワイトソックス)などで
他にもジャイアンツのドイル、マークルなども名選手でした。
ジャイアンツからのメンバーには、さらにあのジム・ソープがいました。
ソープは、インディアンの血をひいた万能スポーツマンで、前年のストックホルム・オリンピックにおいて陸上十種競技で圧倒的な成績で金メダルを獲得し、全世界をアッといわせました。
しかし、帰国後にパイレーツとジャイアンツが、彼をプロ野球選手として獲得しようとして紛糾し、その過程でソープがアマチュア規定に違反してオリンピックに出場したことが明るみになり、金メダル剥奪という不運に見舞われました(「不運」というのは、当時としては誰でもやっていた公然の違反なのに、ソープだけが運命のいたずらでそのことを追及されてしまった、という意味です)
結局、マグローがソープを獲得しますが、話題を呼んだ割には、ソープの活躍は見られませんでした。
しかし、この海外遠征にはソープも帯同していたのです。
12月6日に横浜についた一行は、そのまま上京して、その日の午後にはもう試合を行っています。
船旅なので、極端な時差ボケなどはなかったでしょうが、それにしても忙しい旅です。
このジャイアンツとホワイトソックスの試合で、強打者スピーカーはさっそく2本のホームランを放ち、そのうち1本はライト場外へ消えて、球場の外の蜂須賀公爵の邸宅に飛び込みました。
翌7日には、当時日本野球の最高レベルを誇った東京六大学の慶応大学が、この混合軍と対戦します。
慶応大学は、その3ヶ月前に来日したワシントン大学と対戦して、2試合連続放棄試合という前代未聞の事件を起こしたばかりでしたが、エース菅瀬は当時日本一の大投手であり、やはり大リーグとまともに勝負できるのは慶応しかあるまいということで、対戦相手に選ばれていました。
菅瀬は、明治42年に来日したウィスコンシン大との試合で延長19回を投げて、見事失点1だけで勝ち投手となっています。
さらに、そのワシントン大学との放棄試合後の3戦目では、10奪三振で完封勝利と、大学レベルなら完全にアメリカ勢を圧倒できる力を持っていましたが、さすがにメジャーリーグ相手にはそうはいきませんでした。
2回を除く毎回得点を許し、8回終了時点で16対3の完敗。
それでも、プロ相手に3点もよく取ったものだ、と観客席は大いに湧き、最終回の攻撃に期待を寄せましたが、そこでシコット投手は怪腕を発揮して、一人の打者を三球ずつで九球、三者三振に打ち取ります。
観客を唖然とさせた幕切れのあと、休む間もなく、今度は昨日に続いて、ジャイアンツとホワイトソックスの試合が始まりました。
その試合で、フレッド・マークルが、レフト場外へ大ホーマーを放ちましたが、試合の行われた三田球場は芝区にあり、打球は場外の麻布区まで飛んだので、"芝から麻布まで飛んだホームラン”として長く話題になりました。
また、スピーカー選手の猛打も炸裂し、同伴した審判のクレム、シェリダンの鮮やかなジャッジぶりとともに、日本野球界に、近代野球とはこういうものか、という衝撃を与えました。
まさに、この遠征で最も影響を受けたのは、日本の野球界だったのです。
その後、この遠征チームが訪問した国で、これほどの反応を示した国はなかったと言われています。
一方、マグローも、この遠征でもっとも印象的だったのは日本の野球だ、と後に回想しています。
マグロー自身、日本のファンのために、みずからノックバットを手にして、内野手とともにシャドウプレー(球なしノック)を軽妙に演じて見せ、観客を陶酔させた、と記録に残っていますが、その彼が、日本の野球で一番驚いたのは、投手のコントロールの見事さでした。
ランナーのベースランニング、野手のフィールディングも想像以上の巧さでした。
彼は断言しました。
「将来、東京の通りの中に”本日、日米野球決戦第一日”という看板が立つだろう」
彼の予言は、現在徐々に現実味を帯びてきていますが、その彼にしても、ヤンキースの主力選手の一人として日本人選手がやってくるという予想は、想像の範囲を超えていたでしょう。
さて、マグローたちは、日本で3試合しただけで、すぐに神戸から上海に向かいました。
以後、香港、マニラ、ブリスベーン(豪州)、カイロ、アレキサンドリア、ニース、マルセイユ、パリ、ローマ、ロンドンと回って、1914年3月6日に帰国しました。
帰国したマグローたちは、球界が異様な雰囲気になっていることに驚きます。
石油王シンクレアたちが、新リーグ”フェデラル・リーグ”を立ち上げたことにより、選手引抜きなどの騒ぎが起きていたのです。
フェデラル・リーグは、数年も立たぬうちに経営が成り立たなくなり、既存2大メジャーリーグに屈する形となりましたが、そのときに大活躍したのが、連邦判事ケネス・ランディスでした。
ランディスのこのときの手腕を覚えていたオーナーたちは、後にバン・ジョンソンに対する不信感が強まったときに、ランディスを担ぎ出し、初代コミッショナーとしてジョンソンの上に君臨させます(後述)。
さらにマグローにとって重要なことが、この遠征帰国後にありました。
球団経営に乗り気でなかったヘンプステッドに代わって、マグローの友人であるジェイコブ・ラッパートたちがジャイアンツを買収しようと計画したのです。
しかし、マグローは、なぜかこの友人たちには、ジャイアンツよりもヤンキースの買収をすすめました。
そして、球場が手狭なヤンキースのために、ポロ・グラウンド使用を認めました。
この時点で、マグローは、ヤンキースのオーナーも兼ねたような気分だったに違いありません。
数年後には、そのヤンキースがジャイアンツを凌ぐ勢いを見せることになろうとは、当時は思いも寄らなかったことでした。
・マグローの人脈
マグローの人脈は、単に野球界に留まらず、作家、実業家、政界にまで及ぶ広範囲なものでした。
ニューヨークの名士として、マグローの存在自体が野球という枠を超えていたのですが、ブロードウェイに知り合いの多かったブラッシュのおかげで、特に演劇界の名士との付き合いが深かったようです。
ワールドシリーズなどの大一番ともなると、ジャイアンツの応援席には、ずらりと
ブロードウェイの名優、名プロデューサーなどが勢ぞろいしました。
彼ら、彼女らは、昼間はこうしてポロ・グラウンドに出かけ、夜はマグローを囲んでラムズなどの酒場で騒いだり談笑したりしていたのです。
マグローの一番の友人といえば、ボクシング界の帝王ジム・コーベットでした。
コーベットは、世界ヘビー級チャンピオンとして、初代ジョン・サリバンを倒した後、1890年代に無敵の強さを誇った男です。
彼の弟は、1890年代のあの無敵だったボルティモア・オリオールズの選手で、マグローとはチームメイトでした。
そのつながりもあってマグローとは親しい仲でした。
マグローの友人で、ブロードウェイ史上に残る大人物といえば、ジョージ・M・コーハンでしょう。
彼は、劇作家であり、作詞家、作曲家、演出家、俳優、ダンサー、プロデューサーなど何でもこなす才人でした。
ジーグフェルドも有名ですが、彼の場合はレビューの巨匠として、美女と喜劇役者の組み合わせで才能を発揮したのに対し、コーエンはもっと幅広く活躍しました。まさに1910年代のブロードウェイを代表する人物であり、ブロードウェイそのものを、ニューヨーク、いやアメリカを代表する娯楽に仕立て上げた功労者です。
(なお、ジーグフェルドもマグローの親友だったと言われていますが、現在入手できるマグローの伝記では彼のことはあまり触れられていないので、詳細はわかりません)
エセル・バリモアは、当時最も有名な女優でした。
彼女は、マグローの熱烈な応援団であり、弟ジョン・バリモアもその応援団に加わりました。
ジョンは、ブロードウェイのみならずハリウッド映画でも有名になります。
バリモア一家は、俳優だらけで、そろいもそろってマグロー・ファンと言われています。
(ちなみに、ジョンの孫が、今活躍中の女優ドリュー・バリモアです)
ハマースタイン一家も、マグローのファンであることではバリモア家にひけをとりませんでした。
ウィリアム・ハマースタインはブロードウェイの劇場支配人として有名でしたが、その父オスカー・ハマースタインもブロードウェイのプロデューサーとして著名でした。さらに、ウィリアムの息子オスカー・ハマースタインU世も、ミュージカルの台本・作詞を手がけ、世界的に有名になります(「オクラホマ」「南太平洋」「王様と私」「サウンド・オブ・ミュージック」など)。
特にウィリアムはマグローの友人として、球場でその姿を見かけることがしばしばでした。
ポロ・グラウンドの常連の一人に、アル・ジョンソンがいました。
彼は、ロシア生まれでユダヤ教牧師の息子だったのですが、その堅苦しい家庭から逃れて、ジャズ歌手を目指しアメリカにやってきました。
顔を黒く塗って唇だけ白く残した独特のメーキャップ”ブラック・メイクアップ”で、有名になり、この1910年代の頃には最も有名なレコード歌手として名声を得ていました。
後に、1927年には史上初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」に主演して、映画史上に名を残すことになります。
彼もマグローのシンパとして有名でした。
最後に喜劇王チャールズ・チャップリンの名前をあげておきましょう。
彼もマグローのファンとして有名でした。、
1921年から始まったジャイアンツ対ヤンキースのワールドシリーズでは、あえて劣勢のジャイアンツを応援しに、たびたび球場に出かけていったほどです。
そのマグローがついにヤンキースに敗れた1923年のシリーズのとき、チャップリンは、敗者となったジャイアンツのダッグアウトのそばにぽつりと立って、感慨にふけっていました。
チャップリンを見つけたファンが騒ぎ出して、いろいろ話しかけたりするのですが、チャップリンは上の空でつぶやきます。
「マグロー、負けちまった。淋しいなあ・・・・」
こういう多彩な人脈を築いて、他の野球関係者とは一味もふた味も違った人気を誇ったマグロー。
まさに1900年代から1920年代にかけて、彼の名声はメジャーリーグを大きく支えるものでした。
・ブラックソックス事件、ランディスとマグロー
1915年には最下位に沈んだマグローのジャイアンツ。翌1916年も、開幕12試合で10敗する最悪のスタートとなりましたが、5月になって17連勝を記録します。
(右の写真は当時のエース、マークァード投手)
この頃、マグローは、ドイル、マークル、マークァード、マシューソンと、主力を次々にトレードに出して,選手総入れ替えに近いチーム改造を行っていました。そのせいもあって、6月から8月にかけて冴えない成績が続き、9月7日の試合前の状態は59勝62敗でリーグ4位でした。
しかし、その試合以降、驚異の連勝が続き、9月30日まで延々と26連勝を記録します(今なおチームの連勝としてメジャー記録です。2002年のアスレチックスは、20連勝を記録してあきれるほど強かったですが、マグローのジャイアンツはそれを6つも上回っているのです)。
奇妙なことは、それだけ勝ち続けたのに、26連勝直後もやはりリーグ4位だったことです。
そして最後のドジャースとの決戦にことごとく敗れ、結局リーグ4位でシーズンを終えます。
マグローの勢いもやや衰えたかと思われましたが、実は、ここからがマグローの凄いところで、翌1917年から1925年まで9年連続して、リーグ1位か2位という位置をキープするのです。
これだけ連続して毎年トップ付近に位置したチームは、他に、ミュージアルのいた頃のカージナルスと、マントルのいた頃のヤンキースくらいのものです。
これといったスター選手のいなかったこの頃のジャイアンツを率いて、この充実ぶりは、まさにマグローの円熟を示すものではないでしょうか。
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1919年のナ・リーグは、シンシナティ・レッズがジャイアンツを抑えて優勝しました。
そして、ワールドシリーズでは、当時両リーグを通じて最強といわれたシカゴ・ホワイトソックスと対戦します。
このシリーズで、あの有名なホワイトソックスの選手の八百長が発覚するのですが(ブラックソックス事件)、実はその八百長が法廷の場で明らかになったのは、翌年のシーズンの最後になってからでした。
その間、ベーブ・ルースという新しいスターが現れ、ホームランの魅力で観客をひきつけ、その一方で、ジョー・ジャクソンやトリス・スピーカーなどの名選手も、この年に自己ベストに近い成績を残しています。
よく「ブラックソックス事件によるダメージをルースのホームランが救った」という風に言われますが、正確にはそうではなく、ブラックソックス事件の当事者であるジャクソンと、新時代の英雄ルースは1920年に同時に活躍していました。
疑惑のワールドシリーズの翌年は、その疑惑が解明されないまま、ルース人気が先行して観客動員数は増え続けていました。
しかし、1920年8月に行われたカブス対フィリーズの試合が発端となり、ワールドシリーズとは全く関係のないその試合の八百長疑惑から、あっという間に昨年のワールドシリーズの八百長疑惑解明へと発展します。
この意外な事態の展開については、バン・ジョンソンの暗躍があったと言われています。
ジョンソンは、以前から険悪な仲だったコミスキーを、この八百長疑惑で一気に追い詰めたかったようでした。
そして、ジョンソンの思惑通り、ホワイトソックスの選手たちが次々に八百長の事実を認めて、コミスキーは窮地に立たされます。
しかし、ジョンソンの絶頂はそこまででした。
ア・リーグの各球団のオーナーたちは、実力者とはいえ一球団のオーナーに過ぎないコミスキーをそこまで追い詰めるリーグ会長など何のために存在するのかと、一斉に反発を示しました。
そこで、ジョンソンを押さえつけることのできる立場としてコミッショナー制度を発案し、かつて敏腕を振るったランディスを初代コミッショナーとして認定します。
ジョンソンは、当然ながら、ランディスの存在を認めず抵抗します。
しかし、すでにジョンソンがワンマンで居られる時代は終わっていました。
かくして1921年1月12日に、MLB初代コミッショナー、ランディスが誕生します。
期待されてコミッショナーに就任したランディスでしたが、前途は多難でした。
八百長疑惑はまだ裁判が続行中で、完全に解決しないまま、MLB全体の印象は日々悪化していく一方でした。
1921年のシーズンが始まった時点で、八百長疑惑によるファン離れは深刻な事態となったのです。
ルースのおかげで抜群の人気チームとなったヤンキースでさえ、この年の観客動員は伸びず、むしろ減少に転じました。
ましてや他球団のファン離れは深刻で、特に当事者球団であるホワイトソックスなどは前年の3分の2程度しか客が集まりませんでした。
その上、裁判の結果どうやら疑惑の選手たちは全員無罪になるらしい、という予想も出て、相変わらずの旧時代体質のMLBに皆愛想をつかす寸前だったのです
そして1921年8月2日、予想通りの無罪判決が下されます。
そこへ「待った」をかけたのは、他ならぬランディスでした。
彼は判決が出た同じ日に、疑惑の選手全員の「球界永久追放」を宣言します。
これは、もう今までのようなMLBではない、正すべきことは正すのであって、しかもそれを決断し得る人間が組織のトップにいるのだ、ということを広く世に知らしめたという点で、非常に画期的なことでした。
結果として、これがMLBの人気回復の大きな原動力となり、ランディスという新しい指導者のもとで、ルースを中心とした野球人気が再燃することになります。
さて、ランディスは、どうやら球界全体で八百長を黙認している雰囲気がある、と察知していて、根気強くその傾向に対処していきます。
実は、ブラックソックス事件には、ジャイアンツのハル・チェイスという選手も賭博にからんでいたのですが、ランディスは、この完全にクロと見なされた選手について、ホワイトソックスの選手と同様に処分することもできたはずなのに、なぜか彼はそうしませんでした。。
さらに、1921年のジャイアンツとヤンキースとのワールドシリーズで囁かれた八百長の噂・・・それはマグローがどうも知り合いの俳優をそそのかして広めた噂のようでしたが、ヤンキースのメイズ投手の八百長疑惑については、ランディス自身が私立探偵を使って調査し、噂が根も葉もないものであることがわかると、すぐにシロと判定を下します。
やはり、マグロー崇拝者を中心としたニューヨークの熱狂的野球ファンの熱を冷ますようなことはあえてランディスも避けていたようです。
しかし、1922年にジャイアンツのダグラス投手が、マグローと喧嘩して、腹いせに八百長をたくらむという事件が起きたときは、容赦なくダグラスを永久追放処分にしました。
そして、1924年に起きた決定的な事件”ドーラン・オコンネル事件”で、マグローのチームから同時に2人の永久追放選手が出ることになります。
これはジャイアンツのオコンネル選手が、フィリーズの選手に八百長話をもちかけたというもので、その話が発覚すると同時に、ジャイアンツの選手が次々とランディスのもとに呼ばれることになりました。
そして、ほとんどの選手が「そんな話は知らない」と主張したのに対して、ドーランという選手だけは「よく覚えていない」と曖昧な返事をしたため、ただそれだけの理由で、オコンネルと一緒に永久追放処分となる、という結果になりました。
当然、マグローとしては、オコンネルはともかくドーランへの処分は不当ではないか、と抗議しましたが、ランディスは全く問題にしませんでした。
すでに野球界で一番力のある人間は、マグローではなくランディスだったのです。
さらに、そのマグローのチームがリーグ優勝してワールドシリーズに出場を決めると、今度はバン・ジョンソンが登場して、ジャイアンツのような八百長チームにシリーズ出場の資格はない、とマグロー及びランディスを責め立てます。
しかし、ランディスはひるむどころか、ジョンソンに謝罪を求め、他球団のオーナーもこれに同調したため、ジョンソンはまたも敗北を喫します。
ジョンソンについて言えば、さらにその2年後にタイ・カップとトリス・スピーカーの八百長疑惑を煽って、逆にランディスによる両者無罪の裁定という結果を招き、球界から完全に失脚します。
こうして、ランディスは、MLB最高の権力者となり、同時に何度も起こった八百長疑惑を見事に処理したわけです。
こうしてみると、マグローは優れた野球人でしたが、八百長を黙認していたふしもあり、やはり旧時代の人と言わざるを得ないように思います。
しかし、当時の様子を記した文献などを丹念に読むと、八百長と一口に言っても現代の我々が想像するようなイメージとはまた違うものが感じ取られて、マグローのこの態度もある意味で仕方ないことかもしれません。
ここは、むしろランディスの卓越した状況判断を称えるべきではないか、と(あくまでも私見ですが)思います。
(マグローに代わってMLBのスターとなったベーブ・ルース。60号ホーマーを打った頃の写真です)

・セレモニー、引退、死、ポロ・グラウンド最後の日
1927年7月19日、ポロ・グラウンドに、ニューヨーク市長ジミー・ウォーカーをはじめとした各界の名士が勢ぞろいしました。
コーハン、コーベットといったマグローの友人たち、オーナーのストーンハム、リーグ会長のヘイドラーといった面々に加えて、その頃ドイツまで無着陸飛行に成功して熱狂的な歓迎を受けていたバード、チェンバレン両飛行士の姿がありました。
球場は何か異様なまでの盛り上がりで騒然として、バード飛行士が自己紹介をするタイミングを失うほどでした。
そして、MSGの名司会者ジョー・ハンフリーが、マグローを指さして絶叫すると、場内の興奮は最高潮に達しました。
「さて、これからチャンピオンのなかのチャンピオンを紹介いたします!」
ハンフリーは、いつもやっている動作、右手をとって高々とさし上げる動作をマグローに対して行い、マグローは簡単な挨拶でそれに応えました。
それから、ブロードウェイの名優たちによる、野球の試合の「演技」が披露され、続いてジャイアンツのこれまでの10回のリーグ優勝と3回のワールドシリーズ制覇に対して、記念の銀杯が授与されたのです。
それは、ニューヨーク全体からのジャイアンツに対するセレモニーであり、マグローへの感謝の気持ちを表したセレモニーでした。
思えば、25年前のこの日に、マグローは初めてジャイアンツの監督としてポロ・グラウンドの芝生に踏み入れたのでした。
そして、今や野球はアメリカ最大のプロスポーツとなり、人々を熱狂させていたのでした。
この日のセレモニーは、マグローの人生で最も輝かしい瞬間の一つだったといえるでしょう。
翌日の新聞は
「この日、ジョン・マグローにおくられた賞賛の言葉はおそらくこの25年間全部の分を合わせたよりも多かったにちがいない」
と書き、タイムズ紙は社説まで組んで、このマグローのセレモニーを取り上げました。
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しかし、実際には1924年のリーグ優勝を最後に、マグローの時代は終わっていました。
1922年にビル・テリーがジャイアンツに入団しましたが、その入団交渉の際、テリーはマグローにこう言いました。
「ジャイアンツがどんな名門なのか知りませんが、そんなに僕が必要なのでしたら、会社のほうに連絡してください。その節は考慮してあげましょう」
テリーはすでにスタンダード石油で高給取りの社員になっていて、食うに困らないため完全に強気の態度に出ていたのですが、マグローにしてみれば、自分にそんな物の言い方をする若僧の存在が信じられなかったようです。
しかし、テリーは決して例外ではなく、その後次から次へとそういう感覚の新しいタイプの選手が登場してくるのです。
マグローは50歳になろうとしていましたが、世代間ギャップに悩み始めます。
1926年のシーズン途中に、ついにマグローは、主将のフランク・フリッシュと衝突し、結局、シーズン終了後に、カージナルスのロジャース・ホーンスビーとの大型トレードを行います。
しかし、このトレードも、ホーンスビーの「カージナルス持ち株売却事件」に発展し、さらにホーンスビーとチームメートとの仲もうまくいかず、マグローにしてみれば、単に悩みがより広がっただけのことでした。
1932年のシーズンが始まると、チームの中心選手のはずだったリンドストロムが、公然と監督批判を行う、というかつてのマグローのチームとしては考えられない事態が発生します。
この事件は、リンドストロムのケガによりとりあえず収まりますが、、その頃になると、マグローは「プトマイン中毒」という病気に苦しめられるようになっていました。
そして6月3日、マグローは引退を表明します。
以前ほどの輝きは失せていたとはいえ、マグローの引退はやはりその年のMLB最大の事件でした。
同じ日に、ルー・ゲーリックが4打席連続本塁打の偉業を達成したのですが、新聞の扱いはごくわずかで、マグロー引退のニュースが紙面を埋め尽くしていていました。
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翌年の1933年7月6日、第1回のオールスターゲームが行われ、ナ・リーグの監督の席には、ジョン・マグローの姿がありました。
まだ現役だったコニー・マックがア・リーグの監督というのは当然のなりゆきとはいえ、対するナ・リーグの監督がマグローというのは、引退して1年経っても、いまだにマグローがナ・リーグを代表する顔だという事実を物語っていました。
しかし、それは大方の人が見た最後のマグローの姿でした。
それから約半年後の1934年2月25日、マグローは60歳で死去します。
野球の第一線から身を退いて、特に余生を楽しむでもなく、あっという間に亡くなってしまったマグロー。
まさにMLBに全情熱を捧げた人生だったと言えるでしょう。
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1957年9月29日。
それは、ポロ・グラウンドで最後のジャイアンツ戦が行われた日でした。
対する相手はピッツバーグ・パイレーツ。
その年の6位と最下位同士の対戦でもあり、地味な試合でした。
しかし、多くのファンにとって試合の中身はある意味どうでもよいことでした。
半世紀以上自分たちを熱狂させてくれたニューヨーク・ジャイアンツというチームが、今日を限りでニューヨークを去ってしまう・・・来シーズンからは、およそ三千マイルも離れたサンフランシスコに移るのだ、という「認めたくない」事実。
しかし、それはもはや覆らない事実でもあり、こうして最後を見届けるしかないということ。
この日ポロ・グラウンドに集まったファンの思いは、皆こうだったに違いありません。
試合前のセレモニーに、ジョン・マグロー夫人が紹介され、ファンは皆、この球場でもっとも輝いていた人物は誰だったかを改めて思い出したのでした。
マグロー夫人は、夫の死後もニューヨーク市内で暮らしていました。
彼女のもとへは「息子のためにマグローのサインが欲しい」という手紙が毎週のように届きました。
すると、彼女は、昔の無効にした小切手をに書いてある「J.J.マグロー」のサインを切り取り、1通1通まめに返事を書きました。
彼女はその小切手を捨てずに全部とっておいていたのです。
また、マグロー夫人は、どの球場でもフリーパスで入場することができましたが、ポロ・グラウンドでは、パスを見せるまでもなく、ファンの皆が顔を覚えていて握手を求めるのでした。
さて、マグロー夫人は、セレモニーでの紹介後、ジャイアンツの監督リグニーからバラの花束を受け取ります。
彼女は言ったのでした。
「もう二度とこの球場を見ることができないなんて、まだ信じられませんわ」
花束を抱いた彼女は悲しげでした。
「もう昔のニューヨークとはおさらばね・・・・」
試合は、9対1でパイレーツの勝利に終わります。
ウィリー・メイズだけがスター選手で他に見るべきものもない当時のジャイアンツ。
2年連続リーグ6位という不本意な成績でこのシーズン、そしてこの球場での最終試合を終えたのです。
試合が終わると、スタンドの観客はグラウンド内に飛び降り、ポロ・グラウンドの”形見”をわがものにしようと、ありとあらゆるものを引き剥がし、こわし、奪っていきました。
ホームプレート、マウンドの土はもちろん、階段の手すりに至るまで持っていかれました。
ストーンハム家の当主ホーラス・ストーンハムは、ファンから野次を浴びせられていました。
その一方で、まだ最後だと信じたくないファンが、意味もなくグラウンドのなかをさまよっていました。
騒ぎがやっと収まり、ファンの群れも散り散りとなって、球場に静寂の時が訪れました。
荒涼としたグラウンド。
・・・そこを去る最後の人はマグロー夫人でした。
彼女は、しばらくの間、誰もいなくなったグラウンドを眺めていました。
ふと、今は亡きジョン・マグローがそこに居て、こっちに向かって話しかけて来るような錯覚に襲われました。
「来年もここでプレーするぜ。オレはニューヨークが大好きだからな」
「貴方、それは違うわ。もうここはおしまいなのよ」
「バカなこと言っちゃいけないよ。ニューヨーク以外のどこにジャイアンツがあるっていうんだ?」
マグローの高笑い・・・・しかしそれは幻想の世界での話。
気がつくと、やはり無人のグラウンドでした。
30年間ものあいだ、そこでヒット・エンド・ランのサインを出し、
マークルの弁護を声高に叫び、マシューソンに指示を与えていた男。
そして、26連勝を成し遂げ、ルースのヤンキースと3年連続の名勝負を
やってのけた男。
この球場でしか蘇りようのない思い出ともうお別れなのだと思うと
マグロー夫人はこらえきれなくなり、大粒の涙が頬を伝って落ちました。
彼女が、手すりが剥ぎ取られた階段を降りて球場の外に出たとき
ポロ・グラウンドの歴史、古きよき時代のボールパークの歴史が
また一つ幕を閉じたのです。
最後に、この日のことを書いたアーサー・デイリーの文章をご紹介しましょう。
「すっぽりと場内をつつんだ暗く悲しい空気、それはノスタルジアをもってしても癒されうるものではなかった。なぜなら、マグローが球界に君臨していた時代のジャイアンツがどんなに人々の心をつかんでいたか、おそらく今の野球ファンにはわかってもらえないだろう。三十年近くの間、ジャイアンツはニューヨークの”寵愛”を集めたのである」