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デーブ・パーカー(1973−1991)<73〜83 ピッツバーグ・パイレーツ、84〜87 シンシナティ・レッズ、88〜89 オークランド・アスレチックス 90 ミルウォーキー・ブリュワーズ 91 カリフォルニア・エンゼルス→トロント・ブルージェイズ>

 1951年6月9日、ミシシッピ生まれ。
 1970年代にデビューした選手で最も三冠王に近い打者と言われ、事実1977年・78年と連続首位打者、1978年はリーグMVP、79年はオールスターMVPに輝き、パワーとスピードを兼ね備えたスーパースターだった。特に1979年のオールスターでは、2度にわたる外野からの好返球でファンの度肝を抜いた。その2度目のスーパープレーというのは、8回ウラの本塁への送球で、ダイレクトでカーター捕手まで放り込んだうえに、スピードガンで140キロ以上出たという伝説を残した。私も、そのプレーを何度もテレビで見たが(当時このプレーは日本でも有名になり、繰り返し放送された)、こんな選手が何人もいるのだったらいくら日本の野球が進歩しても追いつけないなと思ったものである。
 1973年にデビューしたが、レギュラーとなったのは1975年からで、打率。308、25ホーマー、101打点というバランスのいい打棒を見せた。その頃の彼は打率3割3分、100打点程度なら軽々とクリアできるので、本塁打を40本程度打てれば三冠王も夢でなかった。1979年には、ウィリー・スタージェルがチ-ムを引っ張り、パーカーが後押しするという格好で、70年代の隠れた強豪チームであるパイレーツがWシリーズを制覇した。この頃が彼のキャリアの絶頂だったかもしれない。
 1980年代に入って、ヒザ痛に悩まされ長いスランプに陥る。それ以上に彼を悩ましたのが、熱狂的なファンによる脅迫であり、脅迫はエスカレートして「球場でプレー中のお前を殺す」という事態にまで発展。実際に銃を持ったファンが入場しているという噂に特別の警備が敷かれることになった。これでは、集中してプレーができるわけもなく、見る見るうちに彼はスーパースターの座からすべり落ちていったのである。
 とはいっても、リエントリー・ドラフトでレッズに移籍した2年目のシーズンなどは、打率.312、34ホーマー、125打点(ナ・リーグ打点王)と見事なカムバックで周囲を見返す。すでにパーカーは終わった選手という見方が強かったので、この成績を見る限り、ヒザ痛もさることながら、パイレーツ時代の脅迫がよほどこたえていたと思われる。数字的には申し分ないように見えたレッズ移籍直後の活躍も、後から思えばもはやヒザをかばった長距離打者への変身であり、それほど本塁打数が伸びないのに対して、打率のほうはみるみる下降していき2割6分程度しか打てなくなっていった。そして、ホゼ・リーホとの交換でアスレチックスへ移籍した1988年、バッシュ・ブラザースの後ろに控えて凄みを利かすベテラン選手という役どころをこなして、久々のリーグ優勝の美酒を味わう。翌年もドン・ベイラー引退を受けてA’sの不動の指名打者として活躍し、22ホーマー、97打点、サンフランシスコ・ジャイアンツとのWシリーズでも第1戦で先制ホームランを打つなど、勝負強さを見せた。翌1990年はブリュワーズに移って、21ホーマー、92打点と衰えないところを見せる。およそ本来のパーカーの調子ではないのだが、本調子でなくてもこの程度の数字は残すのである。ただ40歳近くになって100打点近く打つというのは、才能だけではできない仕事である。今まで、私はパーカーの80年代・90年代を全く評価していなかったが、こうして記録をつぶさに追ってみると、彼のたゆまぬ努力を認めぬわけにはいかない。やはりレッズ時代以降の彼も凄いといわざるを得ない。1991年にエンゼルスに移籍して、さすがに年齢からくる衰えを見せる。最後の最後にシーズン途中にブルージェイズに移籍して、選手生活を終える。通算打率.290、2712安打、339ホーマー、1493打点。二塁打526、三塁打75という数字と合わせて、実にオールラウンドな数字を残した選手である。それだけに三冠王をとれなかった・・・とるチャンスにあったときに、ケガと脅迫のダブルパンチに遭った不幸な選手という印象がどうしても残ってしまうのである。


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