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ピート・ローズ(1963−1986)<63〜78、84〜86 シンシナティ・レッズ、79〜83 フィラデルフィア・フィリーズ、84 モントリオール・エキスポズ>
 1941年4月14日生まれ。右投げでスイッチヒッター。
 1951年のジョー・ディマジオ引退後でいえば、MLBで最も有名な選手といって過言でない。あらゆるスポーツを対象にして1970年代最高のスポーツ選手は誰かという投票があったが、ローズは他のジャンルのスポーツ・ヒーローをすべて押さえて第1位となる名誉を得た。
 もっとも、彼はそのくらいの名誉を得ても何の不思議もないスーパー・スターである。まず頑丈な体であること。彼は24年間メジャーリーガーで居続けたが、そのうちシーズン100試合以下の出場は引退の年の1回だけで、新人の年から18年連続して130試合以上に出場している。19年目に途切れているのも長期ストライキのせいで彼の能力の問題ではなかった。そして20年目の1982年にはまた162試合フル出場を果たした。1969年から12年連続で150試合以上出場しており、これに匹敵するのはあの連続試合出場記録で有名なカール・リプケンただ一人である。リプケンが記録達成までの期間で3割を打ったのは4回しかないが、ローズは逆に3割を切ったのが2回しかない。単純に比較できる話ではないが、大リーグで162試合フル出場することの意味を考えると、リプケンの記録は別格としてローズの150試合以上のシーズンが12年連続というのももっと評価されていいだろう。
 もっともそんな記録にこだわる必要がないというのも事実である。ローズにはアンタッチャブルな記録がいっぱいある。シーズン200安打以上10回、600打数以上17回、通算安打4256本、変わったところでは5つのポジション(ファースト、セカンド、サード、レフト、ライト)でそれぞれ500試合以上出場というのもある。タフな上に器用だったといえる。元々はセカンドだったが、チーム事情で外野やサードにコンバートされ、運動量の落ちた晩年はファーストというようにいろいろなポジションをこなしたが、彼の場合そういう守備の負担が全くバッティングに現れないタフネスぶりだった。他にも、ナ・リーグ記録の44試合連続安打、1968年と1969年の2年連続首位打者を公式戦最終試合でもぎ取ったこと、通算単打3215本(第1位)、通算二塁打746本(第2位)などメジャーの最高レベルの記録ばかりである。
 日本には1978年にレッズの一員として来日し、噂通りのハッスル・プレーでメジャーの魅力を十分伝えた。帰国後すぐにフィリーズへトレードされたというニュースには皆仰天したものである。レッズ以外のユニフォーム以外を着たピート・ローズなど想像もできなかったし、何の前触れもなくローズほどの選手がトレードされるメジャーの現実にカルチャー・ショックを受けたとも言える。
 レッズで主将として4回リーグ優勝、2度世界一になった彼は、フィリーズでも2度リーグ優勝と1度の世界一に輝く。そして古巣レッズに選手兼監督で迎えられたときは、栄光の絶頂にいたはずである。精彩のなかったレッズを徐々に優勝の狙えるチームに育て上げ、これからというときに突如彼は地獄に落ちる。自から率いるレッズの勝敗を賭けた賭博に参加していたのである。大リーグで一番タブーといえる行為への疑惑により、いかに選手としてローズが優れていようと関係のない話となった。ローズは弁明するが、当時のジアマッティ・コミッショナーは有罪、永久追放の処分を下す。同コミッショナーは、このローズ事件の心労により、処分直後に急死する。ローズも野球人として急死したようなものだった。1990年、レッズはピネラ監督のもとで奇跡の優勝を果たし、Wシリーズでも無敵アスレッチクスを下す快挙を見せるが、そこには功労者ローズの姿はなかった。そして、いまだに野球殿堂入りの資格を剥奪されたままである。


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