[PR]100万円が無料で当たる!:今すぐ応募して現金を当てよう!

レジー・スミス(1966−1982)<66〜73 ボストン・レッドソックス、74〜76 セントルイス・カージナルス 76〜81 ロサンゼルス・ドジャース 82 サンフランシスコ・ジャイアンツ>
1945年4月2日、ルイジアナ生まれ。
 1967年にメジャー本格デビュー。いきなり158試合出場のレギュラー外野手となり、Rソックスのリーグ優勝時のメンバーとなる。翌68年には、盗塁22、15ホーマー、二塁打37本(リーグ最多)と走攻守にバランスのいい好選手ぶりを発揮し、守備でもゴールドグラブに輝いた。翌69年には、打率.309、25ホーマーで一流選手の仲間入りを果たす。以後3割、20本、80打点は見込めるスラッガーとして活躍するが、チームの若返りを図るボソックスは、F・リンなどの新人を起用するため、1974年にスミスをカージナルスに放出する(バーニー・カーボとのトレード)。カージナルスへ移った1974年には自身初の100打点を記録するが、チームは弱くてあまり話題にならなかった。1976年のシーズン途中でドジャースへ移籍するが、これが彼の名前をビッグネームにする契機となった。
 当時のドジャースはラソーダ監督の若手中心の構想が軌道に乗りつつあった時期だが、チームの主軸となる左打ちの強打者が不足していた。また優勝を狙うには、経験豊富なベテラン選手も必要だった。スミスはそうした条件すべてに合致していて、ドジャースのチーム事情に最適の補強となった。1977年はスミス自身最高の出来で、打率.302に自身唯一の30本の大台に乗った32ホーマー、87打点で選んだ四球も104の大台に乗った。主力打者として大いに恐れられたというわけである。結局、この年のドジャースは、S・ガーヴィー、ロン・セイ、ダスティ・ベーカー、R・スミスの4人が30ホーマー以上を放つという30本カルテットを形成、ナ・リーグでレッズ、フィリーズ、パイレーツなどの強豪を押さえて優勝を果たした。ヤンキースとのWシリーズでは、レジー・ジャクソン(ヤ軍)の奇跡的な1試合3連発の前に屈したものの、「もう一人のレジー」もこのシリーズで3本の本塁打を打って注目された。
 1978年も同じくリーグ優勝、Wシリーズでヤンキースに敗退ということを繰り返し、レジーもそれなりに好調を維持するが、1979年頃から故障に悩まされはじめて年間フル出場が難しくなってきた。1981年も変則シーズンながらわずか41試合、35打席の出場で、引退同然であったが、翌年ジャイアンツへ移籍するや再び106試合に出場して、打率.284、18ホーマーという成績を残す。もっとも、肩の故障が致命的で、外野から内野への送球が満足にできない体になっていたため、この成績でも各球団はスミスとの契約に二の足を踏んだ。
 打撃だけならまだやれると思っていたスミスは、次の活躍の場を日本に求めて、伝統ある読売ジャイアンツに入団。28ホーマーを放つが、今ひとつ日本の野球になじめず、2年プレーした後帰国した。
 生涯成績、打率.287、2020安打、314本塁打、1092打点。引退時点でスイッチヒッターとしてはミッキー・マントルに次ぐ成績を残していた。また、両リーグでオールスターとWシリーズの両方に出場した選手は、F・ロビンソンと彼だけである。


[PR]≪看護師≫の専門求人サイト♪:週3日・長期で探す『医療介護ワークス』